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街が芸術 [書を捨てよ世界に出よう・90年代バックパッカー編]

ここまで楽しんでいただいているだろうか。結構アクセス数があるようなのでこのまま進めていく。 

さて、当時ネットカフェはあるにはあったが、今ほど主流ではなかった。携帯電話も持たずにあくまでもアナログな旅をしていた。そんなわけで日本の家族や友達への連絡手段は公衆電話と葉書によるものとなり、時差を意識しながら旅を続けることとなった。

デジタルな生活に慣れてしまうとアナログな旅というのは不便に感じるかもしれないが、公衆電話の使い方を知ることができるし、地図を見て歩き回ることで土地勘が強くなるという利点がある。不便なぶん情報を求めて現地の人と交流する機会も自ずと増える。現在のバックパッカー旅はデジタル化されて楽になっていると思うが、折角の機会だからあえてデジタル界から離れてみることをお勧めしたい。

 

スイスからミラノに入る。ミラノ中央駅でいきなりやられた。換金する際におつりを誤魔化されてしまったのだ。元々算数脳が軟弱な上に、リラの0(ゼロ)の多さにわけがわからず起きた事だった。ユーロに統一された現在であればこのような心配はないと思うが、当時は算数脳をフル回転していないと現地の物価もわからない。わからないまま次の国に移動する、そんな状態であった。

到着早々にブルーな経験をしたのでなかなか気持ちを切り替えることができず、ひたすらビッグサイズなドゥオーモの中でちっぽけな自分を虐めていた。ちっこいな自分。それにしてもドゥオーモったらすごい。空に向かって針葉樹林のごとくツンツンとした装飾があるのだが、さすがゴシック建築を代表する建物である。パリからミラノに入った建築を勉強しているという旅行者は、ミラノの建築はパリと比べると繊細だと言っていた。なるほど。

スカラ座は観劇する予定はなかったが、併設するスカラ座博物館には足を運んだ。ここにはショパンの手の石膏型やワーグナー、トスカニーニのデスマスクがある。スカラ座と言えばオペラの殿堂である。オペラは数回しか観たことがないがその音楽レベルの高さはもちろんのこと、衣装や装置や小道具などが本当に手が込んでいて見応えがある。

話が少し逸れるが、NYで学生をしていた頃、友達のお祖母様がリンカーンセンターで働いていた縁で、オペラのドレスリハーサルを見せていただいたことがある。演目はワーグナーの「さまよえるオランダ人」であった。ブロードウェイのミュージカルばかり観ていた当時でもその豪華な装置や照明に度肝を抜かれた記憶がある。ちなみにDRの後には舞台裏にも連れて行っていただき指揮者(世界的に有名な人だったらしい)と主演女優に挨拶までさせてもらった。これがヅカだったら即死であるが、オペラフリークではない私には豚に真珠。勿体ないことである。

話を戻す。ミラノではユースではなくシスターが管理する教会の修道院の一部に泊まった。日本でもお寺に泊まったことがあったが、ひたすら場違いな感じがしたのはイタリアでも同じこと。神に祈る日常を送っている修道女たちを見ると、なんだか自分の立場が恥ずかしくなってしまう。神に身を捧げ、一生をかけて祈り続けることを選んだ修道女たち、その潔さ、純粋さ。その真っ直ぐな思いに少し息苦しくなるほどであった。

ミラノ2日目はスフォルツェスコ城へ。ここはお城ではあるが市立美術館としても開放されている。お城も美術館も好きな私には一石二鳥である。ミケランジェロ晩年作のピエタ像やメディチ銀行の門などなど見所満載であった。

次に向かったのがダヴィンチ作「最後の晩餐」で有名なサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院である。道に迷いながらなんとか辿り着いたのだが、修復作業中で見ることは叶わなかった。残念。

残念ついでに珍しく買い物に出かけた。だいたいどこの土地に行っても地元のスーパーには行くことにしている。現地の人の生活風景がそこにあるからだ。でもミラノではミラノらしく靴なんかを買ってみた。しかも皮靴を2足。おかげで荷物が重たくなった。

買い物袋を提げて修道院に戻るとまた気持ちが重たくなる。別に何も悪い事をしているわけではないのだが、ギャップがありすぎる。そうそうここではイタリア語しか通じなかった。一応イタリア語は勉強していたのでなんとかなったが、色々な意味で緊張を強いられる空間であった。

さて明日はいよいよローマに向かう。続く。


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