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アルバムは語る [書を捨てよ世界に出よう・60年代バックパッカー編]

出戻り組は色々とやることがあるのだが、その一つにアルバム整理というのがある。

思い出の整理。つまり処分など。今どきはデジタルの状態でアルバム保存しておけるから簡単だろう。ただプリントしてアナログ保存してあるものに関してはアルバムから出して破って捨てなければならないので面倒だったりする。で、アルバムを片っ端から広げていたら母上が出してきた、60年代バックパッカー旅のアルバムを、4冊。

私「おっ!ダビデ見せてよ」

母上「それがねぇ~ずっと探しているんだけど見付からないの。」

(嘘言ってんじゃないだろうねぇ的視線にて無言の圧力をかける)

母上「ほ、本当だって、どこか別にしまってあるの。覚えてるから間違いない。」

まあそう言うなら待っていてやろう。でもアルバムはさすがに物を言う。美男美女ばかり撮影していたという話の通り実際のところハンサム君が沢山写っている。そして時たま母上とのツーショットがあったりする。

私「ねえ、これ誰?」

母上「知らない人。格好良かったから撮ったの。でも向こうから一緒に撮ってくれと頼まれたものもあるんだから。」

何よりも驚くのは私が想像していたようなバックパッカー服、つまりTシャツにジーンズとかではなかったということだ。この時代に大和撫子のジーンズ姿なんてなかったと聞いて納得したのだが、それにしてもすんげー可愛らしいショート丈のワンピース。シフォンジョーゼットと言われても何のことやらさっぱりなのだが、旅行前に母親が数着仕立ててくれたらしい。

それにしてもである。そりゃあ母上のキャラクター的には似合っていることは否定しないが、この格好でバックパック持って人間の塔の下で眠ってしまったり、ローマのテルミニ駅で酔いつぶれていたりしたのかと思うとその奔放さにあきれる。よくぞ生き延びたというか、どう見ても小学生だよなというか・・・自由だ。

日本を発った日にいきなり船上のDance Barにてカクテル“ハバロフスク”を注文しているようだ。母上、「奇妙な味だった」とメモしてあるがアルコールは飲めないのでは・・・勢いなのか、揺れる船上でその後どうなったのか、本人は忘れたと言っているが謎だ。

アルバムを見ていて不思議な写真を発見する。母上、旅の途中でどうして急に髪が伸びているのですか? 

母上「これね、付け毛。当時は日本人は髪が長いほうがもてるって言われてたからデパートで買って行ったのよ。でも子供に間違われて全然もてなかったけどね。」

・・・なんという下心。ある意味準備万端。   

アルバムの中に親兄姉宛てに旅先から出した葉書というのもあった。“日本の男性が世界で一番”というフレーズが度々出てくるのだが、どうにもユース先で出会った日本男児にランチをごちそうになったり、現地で暮らしている日本人に道案内をしてもらったついでに豪華なランチをごちそうなったりと本人が忘れているところで色々と世話になっているらしいことが判明した。 

ここでポイントとなるのがこのフレーズが出てくる時は決まって“ごちそうになっている”ことである。きっとこの人のことなので、空腹を満たしてくれる人は良い人になるのだと思う。色々な意味でハラハラさせるが、本人は“良い人でぽーっとなった”と父親宛ての葉書に書くほどにあっけらかんとしている。こんな葉書を受け取る父親の気持はどうよ。  

母上「そんな何も考えてないよ。親も私の性格わかってるだろうから。」 

さすが自由人である。その奔放さが羨ましい。 

・・・そんなわけでダビデ写真は未だ捜索中である。


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駅で酔ってジェラートで恋 [書を捨てよ世界に出よう・60年代バックパッカー編]

さてローマである。ユーレイルで移動につきテルミニ駅からローマに入った。喉が渇いたので到着してすぐに駅構内でコーラーを注文する。一気に飲むや心臓がバクバクして、顔がかーっと赤くなった。アルコールだったのか?!(飲む前に気付け。)どうやらコークハイだったらしいのだが、注射前のアルコール消毒で酔うレベルゆえ酔いを醒ますのも時間がかかった。

「ほら、以前カキ氷に蜜だと思って間違って石油かけて食べてたこともあるから。」(食べる前に気付け。っていうか燃えるぞ脂肪。究極のダイエットだな。)

ローマではそれなりに観光地を周ってみた。バチカン市国にも行った。でも印象に残っているのはやはり食べ物関連で・・・ジェラートを買う列に並んでいたら大学生くらいの青年が自分のぶんと別にもう一つを買って渡してくれた。そして颯爽と立ち去った。

「本当に普通にハイって渡して去って行ったんだけど結構素敵だったのよ、インテリな感じもしてね。」

と目をハートにしてのたまった。恋する大和撫子、単に子供に間違われただけ説に一票。

さて一ヶ月半にわたるバックパッカー旅もローマにて終了。ローマからアリタリア航空で羽田に飛んだ。

久しぶりの日本。食に生きる大和撫子がまずしたこと。それはラーメンを食することであった。所持金などには目もくれずとりあえずラーメンを食べた。満足。さて帰るか・・・とお金がないことに気付く。かろうじて電話をかける小銭だけが財布の中に寂しそうに残っていた。

「すごい心配してくれてたみたいなんだけど、お金が足りなくて電話が途中で切れちゃった。こっちは用件だけ言って迎えに来てくれるまで待ってたの。でも時間があったから空港の中をフラフラしてたら結構探したらしくてすごく怒られちゃった。」

母が兄の運転する車で迎えに来てくれた。帰宅すると候文の手紙を送ってくれた父が喜んで迎えてくれた。こうして迎えられて嬉しかったが、もっと旅を続けていたかったというのが本心である。帰宅後しばらくの間はカンツォーネを聞くと泣けて仕方なかった。虎視眈々と次の機会を狙ったいたのだが、この後海外旅行をすることはあっても、刺激的なバックパッカー旅をすることのないまま今に至っている。

 

60年代バックパッカー編、いかがでしたか。旅の参考にも何にもならない内容でお届けしましたが、観光地の話題ははっきり言って無いです。1に食べ物、2に食べ物、3、4に食べ物で5に美男子。バックパッカーの魅力を伝えようにもどうしようも無いです。まあしいてあげるなら自然体で楽しもうってことですかね。

「やりたい事をやって、自分の欲求に忠実に楽しむ。そんな感じかな。悪い事も良い事も全て自分の責任だからね。そこはきちんとわかった上で自分で決めて行動してるから後悔することはないよ。本当に楽しかった。なるべく感性の豊かな若いうちに経験したら良いと思う。またやりたいな。」

だそうです。この人の影響を受けて娘の私もバックパッカー旅をすることになるわけですが、その話は90年代バックパッカー編にてそのうちにお届けしますのでお楽しみに。


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ダビデ君とキス [書を捨てよ世界に出よう・60年代バックパッカー編]

はい、60年代バックパッカーの旅、まだ終わってないんで続き行ってみよう。

えーっと確かペルージャでペンションに滞在していたところまででしたね。

ちびっ子たちと別れて向かった先は憧れの街フィレンツェ。花の都。フローレンスとも言いますね。バニー大空さんのほうじゃないよ。(知ってるから。)

1週間ばかりユースに滞在した。頼みもしないのに毎朝ユースの前で車にボートを乗せて待っている小太りじいさん。毎日ドライブに誘われるが無視。あまりにもしつこいので通りがかったポリスに助けを求めるも、今度はそのポリスにも付きまとわれた。なんともイタリアらしい話ではないか。

さてここで超美男子と出会う。ユースの側にテントを張っていたイギリス人兄弟がいた。兄弟ともにまだ10代の青年たち。二人に誘われる。特に弟、ピーター15歳。毎日猛烈にラブアタック(なんかゲームのタイトルみたいだ。)してきたそうな。見た目が兄よりいけてた。なんと、かの有名なミケランジェロ作ダビデ像並みだったらしい。なので断る理由もなく・・・ってどうなったん?っていうか見た目が9割ですか?

「いやー普通にね、一緒にお話したり食事したりしただけよ。そこは大和撫子だから当然です。」

まあね、娘の自分が言うのもなんだが、この人だったら本当に大丈夫だろうね。だからまあ安心したわけなのだが・・・

「あっ、ファーストキスの相手ではあったよ。それだけだけどね。」

うぉーっ!・・・いいの?時効なの?

なんかイタリアで10歳年下のイギリス人の青年とキスってどうなんだ。なんか新鮮だ。っていうか自慢してる?あっ、もしかしてダビデ像かなんかを見てきた後で夢を見ただけだったとか?ありえないこともなし。とからかったら(親をからかうな。)「写真あるから帰ったら見せる。」と自信満々に言われた。楽しみでいたしかたなし。

ダビデ君、お勉強はできなかったのかイギリスにいる母親から「成績が悪いから帰ってくるように」と手紙が届いた事をダビデ君の兄上がそっと教えてくれた。(兄上、黙って負けてはいない。知恵者である。)

「そうね、それを聞いてちょっと覚めたね。年もそんなに違うと思ってなかったから。」

本当か、本当に知らなかったのか?怪しい。ダビデ君には一緒にイギリスに帰ろうとまで言われたらしいが、丁寧にお断りした。後しばらくの間、日本とイギリス間で文通が続いた。

さて旅も終盤に入った。次回で終わる予定である。


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子供の仲間入り [書を捨てよ世界に出よう・60年代バックパッカー編]

さて前回は滞在先のウィーンに父親から候文の巻き手紙が届いたところまで書いた。そろそろ先に進めようと思う。

イタリアのボローニャが次の滞在先である。なんでも世界最古の大学があるらしい。(さすが教育学を勉強しただけのことはあるな、良い志だ。あれ?英米文学部出身のはずだが、母上・・・にゃるほど教員資格を取るために教育学を取ったらしい。)ボローニャは閑静で落ち着いた街。とても気に入った。が、滞在は次の街ペルージャのほうが長くなった。

ペルージャに一目ぼれした。お年寄りが優雅に着飾って朝食をとる風景がさまになるような街。理由はわからないが、とにかく少し長く滞在したいと現地で急遽ペンションを借りた。と言っても1週間ほどのことだ。ただ目的なく居てみたかった。ここで近所の子供たちに気に入られた。毎朝5~6人の子供たちがモーニングコールをしてくれる。窓の外から名前を呼ばれるのでそれで目覚めていた。

滞在中、その子供たちに誘われ近所のプールに行った。一人だけ大人用のプールで泳いでいた(というより泳げないので浸かっていた。)ら、いきなり無言でひょいと抱きかかえられボチャンと子供用のプールに落とされた。???そりゃあもうね、絶対にその子供たちの仲間だと思われていたに違いない。子供たちは9歳前後、と言ってもヨーロピアンな彼らは大きかった。背格好はその子たちとたいして変わりない。大和撫子ある意味屈辱的敗北感を味わう。(だいたいこの子供たちにどこまでカミングアウトしたんだ、母上よ。きっと皆仲間だと思っていたに違いない。年齢的な意味で。)

「サバをよむ」って教育者的にどうなんだ?と詰め寄ったら年齢のことを言うチャンスが無かったと返された。とにかくいたいけな子供たちと戯れることができた母上はある意味すべてにおいて彼らの仲間だったのかもしれない。良いではないか。国境も年齢も超えた付き合いなんて中々できることではない。一期一会。好奇心から始まった国際交流は良い思い出となった。


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音楽の都ですき焼き [書を捨てよ世界に出よう・60年代バックパッカー編]

昨日に引き続き旅の話。さて食い倒れている人が次に選んだのはオーストリア。花より団子な人にはどうなんだろうか、オーストリアってのは。

荷物を持って道を渡ろうと思ったら見知らぬおじ様がひょいと持ち上げた。まさか泥棒?と思ったら道を渡ったところに荷物を置いてそのまま去っていった。バスに乗り、降りるところを尋ねると降りるときに教えてあげると言ってくれた人が先に降りてしまった。でも実はちゃんと他の人に引き継いでおいてくれていた。

「とにかく親切なのよ、オーストリアの人は。」

まあ国民の印象っていうのはそんなちょっとしたことで決まったりするものだ。実際母上は背が小さいから子供のように思われたのだろう。ちっこいアジア人が大きな荷物を持っている姿に同情してくれたのかもしれない。

でも実は怖い思いもした。映画「第三の男」に出てくる大観覧車に乗りたくてプラーター遊園地に行く。よりによって夕暮れ時に。だから結構空いていた、というより人影がない。憧れの大観覧車に乗っていざ、と動き出す瞬間に中年の男が乗ってきた。完全に密室、しかも空中。脱出不可能。男はずっとこちらを見ている。生きた心地がしないまま到着すると男はそのまま去っていった。これぞまさにサスペンス(=不安な心理状態、宙吊りの意。)ある意味「第三の男」的な世界を体感できたようだ。

モーツアルト像のあるブルク公園で突然「日本の方ですか?」と見知らぬ女性に声をかけられる。「もしよろしかったら今晩家ですき焼きをするのでいらっしゃいませんか。」ウィーンでまさかのすき焼き。しかも招待してくれた女性がかなり美人だった。そりゃあもう行くしかないでしょう。

聞くところによるとオペラを勉強している人らしい。「オペラですか。さすがウィーンですね。」と話を聞くふりをしながらすき焼きしか見ていなかった。で、ご親切な方、あなたのお名前は?伊藤京子さん。そうですか、どうもご馳走様でした。

後日帰国してから驚いた。実はすごく有名な人だったのだ。なんと紅白の審査員までやっているではないか!なんてことだ、すき焼きしか覚えていない。(現在は日本演奏連盟理事長などをされているようです。その節は母がお世話になりました。本当にすいません、すき焼きしか覚えていないようで。)

さて、ユースホステルに戻ると父親から手紙が届いていた。旅先から葉書きを出していたので、だいたいの移動先については前もって連絡してあったのだ。明治生まれの父親から初めてもらう手紙は巻紙でしかも候文だった。(「~でそうろう」ってやつね。)一緒に旅に出た人が帰国しているのに自分の娘が帰らないので心配している模様。でも所持金が尽きるまで帰らないと決めていたので旅を続ける事にした。


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ある意味食い倒れ [書を捨てよ世界に出よう・60年代バックパッカー編]

スイスでグラマーな同行者と別れてから一人どこに向かったのか。

登山列車でユングフラウヨッホに登った。ユングフラウヨッホっていうのは有名な観光地。何が有名かというとヨーロッパの最高地点の標高3454m地点に駅があることで有名。自分も行ったことがあるが列車で運んでもらったにもかかわらず、自力で登頂したかのような気分にさせてくれる所だった。なんでだろう。あれだね多分、大きなスイス国旗が頂上に飾ってあるのとかが探検隊が無事到着しました感を演出しているんだな、きっと。

ヨーロッパ最高地点で次の行き先を決めた。アムステルダム、オランダです。ここでの思い出は生肉(タルタル肉)のサンドイッチ。非常にカルチャーショックだった。この時代の大和撫子にはそうかもしれない。オランダは以上。

次に向かったのがドイツのハンブルグ。なぜハンブルグだったのか。それは生肉にショックを受け、その反動でハンバーグが食べたくなったから。ハンブルグはハンバーグ発祥の地と聞いていたのでこれは行かねばならないと思った。でもここで食べたハンバーグはちっとも美味しくなかった。日本人として醤油の必要性を説いて回りたいとさえ思った。(母上、それでは和風ハンバーグになってしまう。)

仕方ないね。それなら次はフランクフルト。(マジっすか?もしかして・・・)

フランクフルトっていうくらいだから美味しいソーセージが食べられると思った。(もうこの発想はどうしたらいいんでしょう。天才的としか言いようがない。)ここのソーセージは外れなかった。特にザワークラフトが美味。当時、日本でソーセージと言えば魚肉ソーセージが主流だった。だからとてつもなく美味しく感じた。帰国してからローマイヤーを見付け、しばらくは思い出に浸りながら食べていた。

食べ物以外の話も少し。ドイツはユースホステル発祥の地。だから特にルールが厳しい。朝荷物を忘れて引き返しても既に鍵がかかっている。つまり「若人よ、外を見て歩け!」ということらしい。

それにしてもこれでは食い倒れのようではないか。食べ物で行き先を決めるってどうよ。この先どうなるのかとても心配だ。

 


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逃げ足は遅いが [書を捨てよ世界に出よう・60年代バックパッカー編]

さて旅の続き。

パリを発って辿り着いたのはスペインのマドリッド。闘牛場に行った。

(ちょ、ちょっと待って。マドリッドね。しかも闘牛場ね。もう速攻で頭の中に「血と砂」の曲が流れた。大空さんプルミタスの何ともぎこちないムレタ捌きが可愛くて、マタドールには縁の無い人なんだろうなぁ~と思って観ていたら案の定、エル・アルコンになってしまったのを思い出した。)

閑話休題。で、どうでした闘牛?

客席にハンサムな人がいたので、その人ばかり見ていた。(あのさ、何しに行ったの?)

闘牛が残酷すぎてとても凝視できるような状況ではなかった。だから仕方なく客席を見ていただけ。(ありがちな言い訳だと思う。だいたいこの人はスウェーデンで美男美女の写真を撮りまくってきた経歴を持っている。今更何を言っても無駄だと思うのだが。)

スペインではバルセロナにも行った。屋台で食べた茹で海老が忘れらない。この時代の大和撫子にしてみれば殻を道に落としながら海老を頬張るというのは何とも贅沢に感じられたらしい。

さて、スペインを離れ次に向かったのはスイス。

ユースホステルに到着。同室のアメリカ人たちが大騒ぎをしていた。迷惑だなぁ・・・と思っていた、ら、怒られた。なぜに私が・・・?と言う間もなく、アメリカ人たちは上手く逃げてしまい、代わりに到着したばかりなのにいきなり罰としてトイレの掃除をさせられた。良くある話である。逃げ足の遅い奴が損をする。まあ仕方ないな。

ところでこの旅を親に許可してもらうには同行者が必要だったはずだが、一度も話が出てこない。なぜか。それはここまで別行動をしていたから。その同行者がここでようやく登場する。

同行者の提案でスイスで初めてヒッチハイクというものを経験した。車を止めたのは若い男。どう見ても怪しかった。同行者がスイスは治安が良いから問題ないと言っているが本当か。ちなみに同行者はグラマーだった。どう見てもカモにされやすい。

・・・やはりその勘は正しかった。山の中腹あたりまで来て突然車を止めた男はそのグラマーに言い寄ってきた。が、グラマーは速攻で車から逃げた。逃げ足の遅い奴が損をする。再び。

しかし戦った。車のナンバーは控えてあるから覚悟しとけと脅した。幸運にもその男はグラマーにしか興味を持っていなかったので諦めてすぐにその場を立ち去った。(この人は切れると怖い。今までも相手がヤ印の組の人であろうと、警察官であろうと、関係なくバトルしている。)

帰路も交通手段はヒッチハイクしかない。だが今回は老夫婦が乗る車をピンポイント攻撃、同乗させてもらってようやく山を下りた。ユースホステルに着いた頃にはお互いの仲は険悪になっていた。だから同行者が登場するのはこれが最初で最後。そう、ここからが本格的な一人旅の始まりである。


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パリで実践、見た目が9割 [書を捨てよ世界に出よう・60年代バックパッカー編]

残念ながら大空さんのいる40年代のハリウッドには行かれないので、60年代のバックパッカー話を地味に進めていく。

デンマークのコペンハーゲンである。ここでは有名な人魚の像が予想外に小さかった事にショックを受けた。なんだか騙されたような気がした。

(以前自分が働いていた時、取引先の一つがデンマークにあった。この人魚の像が活動家のターゲットになるらしく、頭部が盗まれたり、ペイントされたりと被害が相次いだ。なのでここに電話をする時はいつも「人魚は無事ですか?」と聞いていたことを思い出す。)

さて、次に向かったのはフランスのパリ。

フランス語を話さず、子供のようなアジア人。しかもバックパッカーとくれば道を聞くにも当然冷たくあしらわれた。それがどうにも納得がいかない。トイレを借りようとホテルに入ろうとすると、ドアマンに怪訝な顔で見られた。それが気に入らない。(そりゃあ無理だろう。)

このままじゃ大和撫子の名が廃る。こんな事ではいけない。そこで考えた。ユースホステルに行くと念のためにと持参していた着物に着替え、再び先程のホテルに向かった。

ホテルには先程のドアマンが立っていた。すると今度はまるで別人のようにニコニコと挨拶をして扉を開けてくれたではないか。人間TPOというものがある、そして見た目が9割らしい。まさに実践してみたらその通りだったということだ。なんともわかりやすいではないか。

それにしても意地というか何というか。よくやった。

・・・で、わざわざ着替えて行ってまさかトイレだけ借りて帰ってきたわけじゃないだろうね。

え、そうなの?マジで?

ところでパリの感想は?

ルーヴル美術館の“モナ・リザ”の絵が予想外に小さかった事にショックを受けた。なんだか騙されたような気がした。(そうですか、人魚の像と同じ感想なのね。)

まああれです、世界的に有名なものはだいたい予想外に小さいのです。(本当か?)

っていうかさ、大きければ良いってもんじゃないでしょ、もっと他に気の利いた感想はないんかい。(まあそれを期待するほうが無理ってもんですな。)


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人間の塔になってみる [書を捨てよ世界に出よう・60年代バックパッカー編]

別に焦らすほど需要もなさそうなので、とっとと先に進める。

はい、ヘルシンキです。フィンランドです。

初めてのユースホステルはアスリートの泊まる場所だったに違いない。何故か?

体育館の横にあったらしいっすよ。っていうより、体育館の一部?みたいな。

そこに二段ベッドが幾つかあって、とりあえず持参したシーツ(ユースホステル協会推薦の品)に包まって寝たらしい。なんだか聞いただけで汗臭いような気がしてくるのは自分だけだろうか。

ヘルシンキは酔っ払いが多かった。以上。(それだけ?)(らしいっすよ。)はい次に行きましょう。

スウェーデンです。はい、何?美男美女が多くて写真を取りまくってきた。そうですか。えっ、国の感想は無いの?終わり?はぁ、以上だそうです。じゃあ次行きます。

ノルウェーのオスロです。

オスロのフログネル公園にはモノリッテン(人間の塔)という121体の老若男女が絡み合ってできた17メートルの高さの塔がある。はい、これね。

ここは世界的にも有名な観光スポットらしいのだが、このモニュメントの下で爆睡した奴がいるというのでちょっとインタビューしてみたい。

「どんだけ寝てたの?」

「そうねぇ~数時間かな。荷物を抱えて、そのまま横になってたみたい。すごいでしょ、(自慢?)よく何も盗まれなかったよねぇ。良い時代だった。」

「もう少し緊張するとかさ、無いんかい、あなたには。」

「もうねぇ~すごいの、この塔。人間の一生をね、表してるんだって。圧倒された。」

そうかい、圧倒されて眠っちまったんかい。

たぶん、思うに、周りの人は気付かなかったね。人間の塔の一部だとでも思われたに違いない。そうだ、きっとそうに違いない。

続く・・・。


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制約された通過点 [書を捨てよ世界に出よう・60年代バックパッカー編]

ソ連行きの船に揺られて酔っている日本人は他にもいた。ヨーロッパでデザイナーを目指す人、シェフを目指す人など。安い旅費でヨーロッパに渡ろうとする日本人を乗せた船は沢山の夢も乗っけていたようだ。

横浜を出た船は数日後ナホトカの港に着いた。そこからシベリア鉄道に乗りハバロフスクに入る。そしてアエロフロートロシアの飛行機でモスクワまで飛んだ。これが生まれて初めての飛行機体験だったので、興奮のあまり写真を撮った、ら、搭乗員が飛んできてフィルムを速攻没収された。(母のことだ、注意事項を聞いていなかったに違いない。間違いない。)

モスクワでは泊まるホテルも、観光する場所も、買い物する店もすべて指定されていた。ホテルで出る食事も買い物もすべて渡されたチケットでするように決められていたが、指定先のグムデパートには物が無かった。唯一買ったのが琥珀のブローチ。しかも蜘蛛の形。今もあるが結構リアルだ。しかも琥珀の色が蜘蛛の体液が出てきそうな感じでさらにリアル。だいたい母親への土産にスパイダーってどうなんだ。

日本語を話すロシア人ガイドの下に日本人が集められ、制約された中でしか動く事ができない状況だったが、あくまでもソ連は通過点であって、先を急ぐ人たちにしてみれば次に向かう国のことで頭が一杯というのが本音だったらしい。

さて次の目的地は・・・続く。


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